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「祖母嶽」


「祖母嶽」(大正14年10月百渓祿郎太著)より「日向日記」の引用部分

●頂上

頂上は日向豊後の境界となり、つゝじ其の他の潅木生じ約百坪の平坦地あり。石祠大小二基他に右方に小石祠二基有り。又三角點あり。展望絶佳なる事は既に述べたり。
 日向日記の著者は延岡町より三田井に出で岩戸村に入り岩戸越を越へ下野村(岩戸村より一里七合)に到り八幡大神社に詣で上野村より河内村を経て五箇所村に入りたるなり(岩戸村より五ヶ所村まで五里半)。同著者は同村の舊家矢津田鷹太郎翁(同翁は数年前物故し現嗣子は矢津田義武氏なり)邸に一夜を明し翌日登山したるが今之を摘録せんに、
「十月二日(陰暦九月三日)。いよいよ登山せんとて只ふたり搏飯と火酒とをもちて山路をふみ分けて行けるに壹里十丁ばかりの處に鳥居あり添利山神社と額にかきつけたり。是れ高千穂の人の説に祖父はそほりの轉訛せるものならんとの説ありけるより近頃の人これを信じてかく名付けたるなりと。此山を日向の人は日向の山なりといひ又豊後の人は豊後の山なりといひ争ひたる事もありつるか。そぼりとすれば高千穂の名山の一となりぬるをもてかくしたるものならんといへども古くより語りつけたる名をたやすくかゆるこそやがてうきたることなれ。さてこゝよりは道もなくなりかや鬼あざみの類生ひ茂りて面を没しすゝむべくもあらずされどこゝまで来て空しかへるはほゐなきわざにしあれば草を押しわけ木の根によぢて山の尾とおぼしき處を行ける程に五合位の處にてあとをふりかへり見れば日向肥後の諸山筆架の如く聳えたち諸塚山も阿蘇山も皆却下にありてさながら兒孫の如しさらに勇気をはげまして進みたりけるに雲あしはやくあなたの谷間より一むらのこきくも忽ち吹き起こりてあなたを閉ちあやめもわかずいかゝはせんとしばらくためらひ持ちたる飯どもくひ待居たるに開きては閉ぢ、閉ぢてはひらくより晴れまを見てあしをはこびおほよそ二十四五丁ものぼれば頂にく石の祠ありてその面に健男霜凝日子神社明治四年辛未五月岡藩知事從五位源久成書從五位守官内大丞藤原朝臣一獻此礎石とえりつけたりかたはらに新しきさゝやかなる石の祠あり添利山神社とあり持ちたる火酒を献してふみ拜み四方を見渡せば日向肥後の国々は一目に見れとも山陰はきりふかくして豊後のかたはよく見えず只そのはれまより九重山由布岳をかすかに見たるのみとにかく九州第一のたかねなれば気象おのづから異りあたかも天上にありて下界を瞰下する心地せられて
            諸塚やゆふあそ山をめの下に
               みてそ知りけるたかきほとをも
とよめり祠のかたはらに陸地測量部の測量台ありたければのほりてしはらくやすみかにかくときるさの事など打語りてかへるさは豊後に下らんと定めて午后二時山を下る。おほよそ十三丁にして豊後口の道を得たりけるにそのけはしき事日向国にまさりて近頃人の往きかひたるあとも見えず、ほとほと難儀して日暮頃直入郡嫗嶽村神原井出の上といふ所につく。絶頂よりこゝまで六拾丁ありといふ。はじめ登る時も日向の人は皆此山には昔より四月一日より三十日やでの内ならば登りたるものなし。いまは草木生茂りて道も知れずといへりけるが此にて聞けば豊後の人もいと驚きたるふりにていま頃祖母山に登りしとは希有の事なり。昔より四月ならては登山を許さず猛獣毒蛇も四月にかぎり人を害せす。其外のときはかりうども谷間をかりくらすのみにてみねには得のほらずといへりける。我等はかゝる事とは知らず只毒蛇蜂虻の類多しはかねて聞きつれども神明の冥護に倚頼して登りたりけるに毒蛇のかげさへ見ず山の八合目にて狐狸の類と思しきものを頭より噛みて尾とあと足のみを残せるあり。その血しほしたゝりあたりには猪の足跡さへそここゝにありたりければ是れ猪が我等の来るを見て肉をすてゝ逃げさりたるものならんと思はれたり。神明の加力にあらずんばいかでか斯の如くなるを得んや。」
右の著者か登山したのは明治二十七年の頃なれば今日とは多少相違する所あるも大差なし。但し今日にありては猪鹿の類は冬期降雪の期ならざればあらはるゝ事なしと言ふ。登山頂路として往路比較的容易なる日向路に採り豊後路の急坂を下るも快ならずとせず。山頂にありても豊後方面に向へる一部は雄大なる絶壁を以って両国を境す。

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