(十五)五ヶ所
一、祖母嶽大明神 石御社 立三尺横三尺 二躰 西面
彼御神、地神五代目に玉ヨリ姫と為奉申舊跡之由。立拾間程(18m)、横ハ五間程(9m)之たいらノ御社。此高山之ふもとより御社迄三里(11.8km)なり。又下向ニも三里、行来〆六里(23.6km)也。彼の大山のふもとは、小木之山三合目ほど5大木五尺(1.5m)八尺(2.4m)廻り之木数知れず、山七合目5小木ニ成ル八九合目ニてハ、三尺(0.9m)四尺(1.2m)廻り木漸々六七尺(1.8-2.1m)上ニのばず、よこニはひ申也。彼山御社ヨリ下七八拾間(127-145m)下ニ●●にて御てうづ水貮拾間(36.4m)程ノたきヨリ出ル。是に従い御社之間、以之外成ル難所也。参詣之人々、岩のかど、森ノねをおさへ、木々えだえだニ取付く、漸く御社ニ参拝申也。彼御社より見へし所ハ、西ハ肥後之國、阿そ山、川迄。東ハ臼杵、佐伯之おき。北ハ筑後之國、筑前彦山、南ハ奈須山、米良山、高知尾中ハ無殘見ゆる高山也。
是より縣御城元ハ、貮拾壹里、竹田御城ハ目ノ下ニ見ゆる。従是六里也。熊本御城元ハ拾六里也。彼高山ハ日向國と豊後國と堺ノ山也。西東南ハ日向國之内と見ゆる。北方ハ豊後之内と見ゆる也。大山也。御領内、東ニ四十八谷、五拾三峯、是ハ西之内、土路久山之奥也。南ハ五拾貮谷、六拾九嶺也。是ハおの内、どうげん越、げず原山(ノ)奥也。西貮拾五谷、三十峯、是ハ成嶽、しやち原、中村奥山也。又西ニ拾三谷廿嶺是ハ柳渡と、たけ之奥之山也。北ハ拾貮谷、貮拾峯也。是ハ豊後御領内おくたけ、川原之奥之山也。
〆谷数ハ百五十谷、〆嶺数百九十貮峯也。荒増如此。御社之西、御領内ニ御馬せめばゞと申所、立ハ六七百間程有、よこハ百四十間之しら野有。此馬場之内ニハ、大小木ハなし。いかにも四方のたいら也。彼御神之神馬九十九疋と申傳也。是ハつきげぶちの神馬と申傳也。彼大山ニ御領ものハふもとニ出入仕候儀ニ候ヘ共、従古わ至テ少之けがも不仕、若肥後ノ者共しのび山ニ入候ヘバ俄ニ雨風しきりにして水出ル也。他國者けが仕、或ハすねをうちなり、こしを打なり、則死●ものも有之、やうやうニしてかたげ國ニかゑるも有り。在所ノもの共皆なし。御神ニ参様之事、二月下旬ヨリ四月之初迄。
夫より前や、是先参拝不仕成。子細ハ八月よりハ、さと雨ふり申候時ハ、ぜんちゃうハゆきふりつもり、明ル二月迄ハきへずふり重テ、さとニゆき壹尺も有之バ、彼山之三合目より上ハ、大木ノ上ニゆき澤山ニふり重る。皆一面之白山也。何ほどつもる共、さとよりハ不存候。彼山四方下リ也。東ニ御領内登り尾山の奥ヨリ、川一筋南ニ流ル。同土
路久山奥より一筋流ル。同南ニ流ル。上ノ村ノ奥より一筋南ニ流ル。又西ニ一筋、川内の奥より南流、〆川ハ四筋之事。壹里貮里ヅツ流にて、三川之内大川流出入候也。又西ニ五ヶ所之川ハ東より西ニ流ル。此川御社ノ近クヨリ出ル水也。かるがゆへに、大ゆきふり大寒ノ年ハ、此川ハ彼高山ヨリ三里ノ間水の上ニおりあふ也。人馬行来ニもほげず、明ル三四月比、炎天之時とけ、此川水流事ハ、貮尺三尺ノ板、戸板をながすニにたり。
彼高山ハ日向ヨリも肥後豊後ヨリ登申所なり。御神参詣ノみち貮筋有、御領内五ヶ所ヨリ一筋、豊後竹田御領内おくだけより一筋、以上貮筋より外ニなし。彼五ヶ所より流ルル水は、豊後竹田ノ御城下ニ流出水也。
彼祖母嶽大明神之下宮、八方ニ八王神と奉申有之也。
内 壹社ハ 御領内五ヶ所祖母宮
壹社ハ 上之村祖母宮
壹社ハ 岩戸折原祖母宮
壹社ハ 岩戸阿蘇原祖母宮
壹社ハ 肥後長野祖母宮
壹社ハ 豊後川原祖母宮
壹社ハ 同 奥嶽祖母宮
壹社ハ 同 尾平祖母宮
〆八社ハ下宮也
但、古ハ御領上之村ノ奥ニ坊中御座候由申候也(樒原東福寺眞相坊)。
彼大明神之御寶物之事。御社之邊ニ、大刀、長刀、脇指、弓、鐵砲、鑓、鎧、甲、其外之武具之道具金銀銭は○○一所ニつ立有是也。彼高山四方之廻り貮拾里餘リ有之也。彼御神之西南ニ山有リ、西ハ土ノ嶽、南ノ山ハ黒嶽(樒原)と申山有、此両山ハ彼御神之両山也。然バ、彼御神之御ちかいニ、九州ニ我が山より高山等有是バ、御けくづし可被成との御ちかい也。かるがゆへニ、彼大山ヨリ高山、目のおよぶ所ニハなし。
田尻正本延寶弐年高千穂十八村神明帳
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