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祖母嶽大明神



「祖母嶽」(大正14年10月百渓祿郎太著)より
読み そぼだけだいみょうじん
鎮座地 祖母山山頂
座標 N32°49' 28.8"
E131°20' 57.0"
北谷登山口まで乗用車で入ることができます。
北谷登山道はよく整備されており、道標も整っていますので初心者におすすめします。参詣は「登山」にあたりますので、一般的な登山に必要な装備・心構え・体力が要求されます。
●日向襲高千穂神代図
●「祖母大崩山群」加藤数功著
●「祖母嶽」百渓祿郎太著
●周辺地形図(国土地理院地形図閲覧サービス)

祖母山頂の石祠に関する文献上の記述

発行年

文献名

石祠に関する記述

明治39年 「日向臼杵郡神社書上帳」 「明治十六年十一月二十日を以って許を得、添利山神社と改称す。此の山無双の高山なれば絶頂には社殿建設する能わず石社を以って奉斎す。」
明治27年 「日向日記」 「頂にく石の祠ありてその面に健男霜凝日子神社明治四年辛未五月岡藩知事從五位源久成書從五位守官内大丞藤原朝臣一獻此礎石とえりつけたりかたはらに新しきさゝやかなる石の祠あり添利山神社とあり.....祠のかたはらに陸地測量部の測量台あり.....」
大正14年 「祖母嶽」 「石祠大小二基他に右方に小石祠二基有り。又三角點あり。」
※このときのスケッチ有り
昭和34年 「祖母大崩山群」 健男霜凝日子神社について「石祠は....現存している。」と記してあるが、祖母嶽大明神については石祠の現存について言及されていない。
現在、祖母山頂に現存する石祠のうち、由緒がはっきりしているのは健男霜凝日子社だけです。
国土地理院の一等三角点の記(祖母山)によると、平成2年の造標時に二つの祠が記録されており、現在の山頂(左図)と比較すると、西端の祠が一番新しいのではないか、と推察されます。
「祖母嶽」(大正14年10月百渓祿郎太著)の祖母山頂図に見られる形状の祠は現在見当たりません。このため、現存する健男霜凝日子社についても大正14年以降に再建されたものではないかと考えられます。

「本社は上宮と称し、別に五ヶ所から約四キロ登路沿いの
一之鳥居には遥拝所があり、ここには拝殿と御神体の無い石祠がある。絶頂に行けない人達は祭日には神官の祭文でここから拝んだらしく、御神体は五ヶ所の下宮から運んだという。むかしは大分県境の国見にニ之鳥居、頂上神社前に三之鳥居があったらしく、これらの鳥居は五ヶ所から参拝する方向(南向)になっていた。それ故この山は日向の山であることを主張していた。つまり山頂が両国境であったので、これをめぐって、境堺論が相当にやかましく、さては日向の嫗嶽、豊後の嫗嶽か議論が盛んに行われた時代もある。また頂上に向かって左が豊後で、右が日向のお宮と、石祠も二分され、区別の付けられた時代もあった。しかも両国で祠の大きなものを建てることを競い、お互いに敵国の祠を深谷に突き落とし、又は壊し、また建てるということを続けて、現在までもこの風習は地元民に根強くこびり付いているようである。」
「祖母大崩山群」加藤数功著より
●祖母山頂見取り図(国土地理院基準点成果等閲覧サービス)


(十五)五ヶ所

一、祖母嶽大明神   石御社 立三尺横三尺  二躰 西面

彼御神、地神五代目に玉ヨリ姫と為奉申舊跡之由。立拾間程(18m)、横ハ五間程(9m)之たいらノ御社。此高山之ふもとより御社迄三里(11.8km)なり。又下向ニも三里、行来〆六里(23.6km)也。彼の大山のふもとは、小木之山三合目ほど5大木五尺(1.5m)八尺(2.4m)廻り之木数知れず、山七合目5小木ニ成ル八九合目ニてハ、三尺(0.9m)四尺(1.2m)廻り木漸々六七尺(1.8-2.1m)上ニのばず、よこニはひ申也。彼山御社ヨリ下七八拾間(127-145m)下ニ●●にて御てうづ水貮拾間(36.4m)程ノたきヨリ出ル。是に従い御社之間、以之外成ル難所也。参詣之人々、岩のかど、森ノねをおさへ、木々えだえだニ取付く、漸く御社ニ参拝申也。彼御社より見へし所ハ、西ハ肥後之國、阿そ山、川迄。東ハ臼杵、佐伯之おき。北ハ筑後之國、筑前彦山、南ハ奈須山、米良山、高知尾中ハ無殘見ゆる高山也。
是より縣御城元ハ、貮拾壹里、竹田御城ハ目ノ下ニ見ゆる。従是六里也。熊本御城元ハ拾六里也。彼高山ハ日向國と豊後國と堺ノ山也。西東南ハ日向國之内と見ゆる。北方ハ豊後之内と見ゆる也。大山也。御領内、東ニ四十八谷、五拾三峯、是ハ西之内、土路久山之奥也。南ハ五拾貮谷、六拾九嶺也。是ハおの内、どうげん越、げず原山(ノ)奥也。西貮拾五谷、三十峯、是ハ成嶽、しやち原、中村奥山也。又西ニ拾三谷廿嶺是ハ柳渡と、たけ之奥之山也。北ハ拾貮谷、貮拾峯也。是ハ豊後御領内おくたけ、川原之奥之山也。
〆谷数ハ百五十谷、〆嶺数百九十貮峯也。荒増如此。御社之西、御領内ニ御馬せめばゞと申所、立ハ六七百間程有、よこハ百四十間之しら野有。此馬場之内ニハ、大小木ハなし。いかにも四方のたいら也。彼御神之神馬九十九疋と申傳也。是ハつきげぶちの神馬と申傳也。彼大山ニ御領ものハふもとニ出入仕候儀ニ候ヘ共、従古わ至テ少之けがも不仕、若肥後ノ者共しのび山ニ入候ヘバ俄ニ雨風しきりにして水出ル也。他國者けが仕、或ハすねをうちなり、こしを打なり、則死●ものも有之、やうやうニしてかたげ國ニかゑるも有り。在所ノもの共皆なし。御神ニ参様之事、二月下旬ヨリ四月之初迄。
夫より前や、是先参拝不仕成。子細ハ八月よりハ、さと雨ふり申候時ハ、ぜんちゃうハゆきふりつもり、明ル二月迄ハきへずふり重テ、さとニゆき壹尺も有之バ、彼山之三合目より上ハ、大木ノ上ニゆき澤山ニふり重る。皆一面之白山也。何ほどつもる共、さとよりハ不存候。彼山四方下リ也。東ニ御領内登り尾山の奥ヨリ、川一筋南ニ流ル。同土
路久山奥より一筋流ル。同南ニ流ル。上ノ村ノ奥より一筋南ニ流ル。又西ニ一筋、川内の奥より南流、〆川ハ四筋之事。壹里貮里ヅツ流にて、三川之内大川流出入候也。又西ニ五ヶ所之川ハ東より西ニ流ル。此川御社ノ近クヨリ出ル水也。かるがゆへに、大ゆきふり大寒ノ年ハ、此川ハ彼高山ヨリ三里ノ間水の上ニおりあふ也。人馬行来ニもほげず、明ル三四月比、炎天之時とけ、此川水流事ハ、貮尺三尺ノ板、戸板をながすニにたり。
彼高山ハ日向ヨリも肥後豊後ヨリ登申所なり。御神参詣ノみち貮筋有、御領内五ヶ所ヨリ一筋、豊後竹田御領内おくだけより一筋、以上貮筋より外ニなし。彼五ヶ所より流ルル水は、豊後竹田ノ御城下ニ流出水也。

彼祖母嶽大明神之下宮、八方ニ八王神と奉申有之也。
内 壹社ハ 御領内五ヶ所祖母宮
  壹社ハ    上之村祖母宮
  壹社ハ    岩戸折原祖母宮
  壹社ハ    岩戸阿蘇原祖母宮
  壹社ハ 肥後長野祖母宮
  壹社ハ 豊後川原祖母宮
  壹社ハ 同 奥嶽祖母宮
  壹社ハ 同 尾平祖母宮
〆八社ハ下宮也

但、古ハ御領上之村ノ奥ニ坊中御座候由申候也(樒原東福寺眞相坊)。
彼大明神之御寶物之事。御社之邊ニ、大刀、長刀、脇指、弓、鐵砲、鑓、鎧、甲、其外之武具之道具金銀銭は○○一所ニつ立有是也。彼高山四方之廻り貮拾里餘リ有之也。彼御神之西南ニ山有リ、西ハ土ノ嶽、南ノ山ハ黒嶽(樒原)と申山有、此両山ハ彼御神之両山也。然バ、彼御神之御ちかいニ、九州ニ我が山より高山等有是バ、御けくづし可被成との御ちかい也。かるがゆへニ、彼大山ヨリ高山、目のおよぶ所ニハなし。

田尻正本延寶弐年高千穂十八村神明帳


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